実は知られていない「初心忘れるべからず」のほんとうの意味

実は知られていない「初心忘れるべからず」のほんとうの意味

こんにちは!
エッセーです。

 よく企業などで不祥事が起きた際に、「初心に戻ってがんばります」といった発言を聞きます。

 また、新入社員などの新しく組織に貼った人も、「初心を忘れずにがんばります」のようなことを行ったりしますよね。

 私も、「ブログを続けていく時に、始めたときの気持ちを大事にしよう」と思っています。

 実はこの「初心」という言葉は、もともとは「始めたときの気持ち」とは違うんです。

 この「初心」という言葉は、能の大成者の世阿弥の言葉なんですが、その元々の文章を診てみましょう。

 世阿弥が記した、「花鏡」と呼ばれる、能の役者のライフデザインを記した本の内容を引用しますね。

 初心という言葉が3回も出てきますね。

 “是非の初心”の”是非”とは、成人して体の成長も声代わり終えて身体的に安定し、能もかなり身につけたくらいの時代です、年齢では24-25歳くらいです。周りの人たちから「天才が現れたぞ!」とちやほやされるルーキー的な段階です。

 “時々の初心”の”時々”とは、30代のことで、能では最も能力と習熟度が高まった時期のことを指します。

 “老後の初心”の”老後”とは、最盛期を終え、どんどん衰えていく時期のことを指します。

 世阿弥は、それぞれの段階で持つべき心がまえと戦略のことを初心と行っています。

 ちなみにそれぞれの段階で、世阿弥は以下のように振る舞うのが良いとしています。

・“是非の初心”
 ちやほやされても浮かれること無く、より成長できるように学ぶことをする。

・“時々の初心”
 一番を目指す。この段階で1版になれないものは、一生一番になれない。

・“老後の初心”
 おいてこそふさわしい芸があるなら、それを身に着けなさい。

 能は人生を通してやり通すことのできるものだからか、それぞれのステージが有ることがよく分かります。

 現代の人生にも、能のように多くのステージがあります。しかも、人生はもっと複雑で、移り変わりの激しい世の中なので、ずっと同じフィールドにいられないとさえ思えます。

 このような時代だからこそ、新しいステージや環境に立った時に、さらに自身を伸ばしたり、目標を追い求めたり、自身の特徴を活かすという目線が必要なのではないかと思います。

 「我を忘れる」という言葉があるように、「忘れる」には心を無くすといった意味があると思います。初めての環境になっても、自身の心持ちを無くさないように、わたしも気をつけようと思います。

 あ、ちなみに、「初心」の意味は、現代の辞書的には世阿弥のようなものはもう残っていようです。ですので、日常生活で世阿弥の使う意味で「初心」を使うのはよくなさそうです。

今回は短いですがこのへんで。

ではでは。