異邦人から見る、「普通の」世界と存在

異邦人から見る、「普通の」世界と存在

書籍と著者について

こんにちは!
エッセーです。

今回取り上げる本は、高橋和巳『消えたい ──虐待された人の生き方から知る心の幸せ』です。

 この本の著者は、精神科医の方で、カウンセリングを通して理解した児童虐待を受けた方々の世界観について書かれた本です。

 著者によると、虐待された患者は、普通の人には欠かせないものが無いため、全く違う世界に住んでいる人になっているそうです。その結果、ほぼすべての心理療法が適応できないそうです。

 著者は、その住む世界の違う人々のことを、敬意を込めて「異邦人」と呼んでいます。

 この本は、異邦人と普通の人がどう違うのか?なぜ、その違いが生じたのかについて書かれています。

異邦人と普通の人の世界地図

 著者によると、世界は3つに別れています。
 普通の世界と、辺縁の世界、そして物理学的な宇宙です。3つの位置関係は以下の図のようになっています。

 一番内側が普通の世界、その周りに辺縁の世界、そして、両方を包み込むのが宇宙です。

 普通の世界と辺縁の世界の間には、境界があります。普通の世界の住人には見えませんが、辺縁の世界側の人達は見ることができます。そのため、著者は普通の世界のことを心理カプセルと呼んでいます。

普通の世界と辺縁の世界の違い

 それぞれの世界の住人を区別する方法があります。それは、とても辛いときに「死にたい」と言うか「消えたい」と言うかです。

 普通の世界の人々には、生きる目的や、理想、楽しい体験などがあります。また、他者や社会とのつながっている自信があります。「死にたい」とは、そういった目的や自信以外とのつながりの放棄です。

 対して、辺縁の世界にはそういった物がありません。不遇な状況に対する怒りさえなく、淡い悲しみが広がっているだけだそうです。そのため、「消えたい」となるのです。

 この本読んだところ、この心理カプセルで隔てられた2つの世界の住人の違いは、私達の存在やアイデンティティや幸福感などにあらわれ、とても興味深い物が多いのですが、今回のブログでは存在とアイデンティティについて取り上げようと思います。

普通の世界にある、存在とアイデンティティ

 著者いわく

「あなたの存在を保障してくれる社会的なつながりは、あなたの「存在」のほぼすべてである。それ以外にあなたはいない。」

高橋和巳. 消えたい ──虐待された人の生き方から知る心の幸せ

 社会的なつながりが幸福感や寿命にプラスの効果を持つ話があります。しかし、著者によれば、そもそもの私達の存在自体が社会的繋がりによって作らるそうです

 著者によると、存在は「社会的存在」と「自己の時間的一貫性」の2つの要素からなるそうです。
 社会的存在は社会の中での役割です。(仕事に限らず、親である、子であるなども意味の有る役割です)
 時間的一貫性とは、要は自分の歴史です。

 この2つが他者がいないと作られない、というのが著者の考えです。
 人々は、社会の規範や日常の感情の共有によってこれら2つを作っています。

 社会の規範とは、社会を成り立たせるだけでなく、個人が社会の一員であることを自覚し、他者にアピールするためにも使います。プラスの意味でもマイナスの意味でも顕著なものは「男らしさ」と「女らしさ」です。
 (関連ブログ:変わる! 男の生き辛さと女の生き辛さ)

 時間的一貫性とは、今と過去の自分のつながりを感じることです。ただの記録ではなく、いわゆる「思い出」として自身のストーリーを持つことです。

異邦人と普通の世界の人との違い

 異邦人は、他者と空間と時間を共有していても、この感覚が著しく乏しいそうです。原因は、ただただ、親からの感情や関心を向けられなかったため、人と共有できる感情も育たず、周りと同じような行動をとっていても、社会の規範を守るという意識が育たないためです。

 こう書くと、異邦人には規範意識が無いことになりますが、異邦人にも「逸脱行為をしない」という意識はあります。異邦人にとっての規範は、ルールは知っているし、守らないといけないことも知っているが、なぜ守らないといけないのかがわからない、といったモノです。

 「おいしい」という感覚を学ぶ例を取り上げます。
 子供が食べ物をニコニコしながら食べている。
 それを見て親が「おいしいんだね」と笑顔で話しかける。
 子供は「おいしい」という言葉と、自身が感じている感覚を結びつける。
 という流れがあります(実際には何回も何回も繰り返す必要がありますが)。

 児童虐待を受けた子供は、このような学習の機会を失い、「おいしい」も「たのしい」も「かなしい」もわからないまま育ちます。当たり前かもしれませんが、人と感情を共有して思い出はできます。感情の言葉と、感情の感覚が結びついていない異邦人は、思い出ができません。本書の症例のなかには、まさしく、自分が生きてきた記録は有るが、記憶は無いという人が取り上げられています。

 規範意識も同様です。
 子供がルールを破った。
 親に指摘される。
 子供が行動を改める。
 親に「できたね」とほめられる。

 以上のような経験を通して、子供は規範を守ることを学びます。そして成長するにつれ、規範意識から役割や責任を感じるようになります。

 異邦人は、規範意識が育っていないため、ルールをなぜ守るのか、という部分が理解できないのです。ただ何度も言いますが、異邦人もルールは守ります。理解できなくても、守っているのです。

心理カプセルの殻の外と内

 心理カプセルの殻が隔てているのは、この「感情の共有」と「社会的なつながり」がある世界とない世界です。普通の世界の住人として、自分らしく生きるとは、きっとこの2つが基本になるのではないかと思います。

 とはいえ、私は、決して「異邦人はだめ」なんてことは言いません。(児童虐待を養護するつもりは全く有りませんが)。そもそも異邦人になるかどうかは親しだいなので子供に責任はないです。

 また、私の好きなブッダは、(多分普通の世界から、)全力で辺縁の世界に行って、そのまま宇宙の領域に突っ走っています。それは近いうちに書きますね。

おわりに

 今回は存在やアイデンティティに関することでしたが、いかがだったでしょうか。

 存在と聞けば、私はデカルトの「我思う、ゆえに我あり」を思い浮かべます。この言葉は、自身の存在が「自身の存在への疑い」で確かめられることを述べています。対して今回の著者は、自身の存在は、ほぼ全て他者によるものとしています。

 自身の存在は自己完結できるかどうかを考えるために、この2つを比較するとメッチャおもしろいと思います。

 今回はこの辺で。
 ではでは。